「塞翁が馬」という言葉があります。
中国の漢文由来の言葉で、「さいおうが馬」と読み、高校の漢文の教科書の定番とされています。
いわゆる故事成語というやつで、昔あった出来事をもとにしてできた言葉です。
そんな「塞翁が馬」ですが、今回は由来となったエピソードを紹介します。
その昔、砦の近くに住んでいる老人がいました。
その老人が飼っていた馬が理由もなく逃げてとなりの国の胡に行ってしまいました。
人々は皆これを気の毒に思い、なぐさめました。
しかしその老人が言うことには、「これがどうして幸福にならないと言えようか、いや、きっとなる(漢文風)」と。
数ヶ月たって、その馬が胡の立派な馬を連れて帰ってきたので、人々は皆これを喜びました。
しかしその老人が言うことには、 「これがどうして禍となることがありえないだろうか、いや、きっとなる(漢文風)」と。
老人の家は、良馬が増えたわけですが、その老人の息子は乗馬を好み、乗馬中に落馬して太ももの骨を折ってしまったため、人々がこれを見舞いました。
しかしその老人が言うことには、 「これがどうして幸福にならないと言えようか、いや、きっとなる」と。
それから1年が経ち、胡の人が大軍で砦に攻めてきて、戦争になってしまいましたが、老人の子は脚を怪我していたため、戦争に行かずにすみました。
こうしたことから、福が禍となり、禍が福となる、その変化を見極めることはできず、その奥深さを測ることはできないのです。
...ということで、長い人生では楽しい事や嬉しい事もあれば、辛い事や悲しい事もありますが、何が幸福で何が不幸かはすぐにわかるものではないよ、という主旨ですね。
例えば、コロナ禍のロックダウンで大変だったけど、それによってネパールでは排気ガスが減って近代以降初めてエベレストが見えるようになった、みたいな感じです。
そのように、長期的に物事を捉え、冷静に構えることで、大抵のことは何とかなるような気がしています。
終わり