どうもです。
卒業シーズンですが、終わりがあれば、始まりもあるもので、4月から大学に入学する方もいるかもしれません。
高校までと、大学からの違いについて、考察してみたいと思います。
例えば、自由度の違い
高校までは、良くも悪くも学校の強制力が強く、活動の自由度が低い場合が多い。
勉強や部活等、やることのレールがかなり決まっている。
これが大学になると、勉強の自由度も上がるし、サークル、バイト、遊びなど、課外活動の自由度も高校より上がることが多い。
ここで、物事というものは、希少性が高いほど、価値が高くなることが多い。レアで珍しい物事ほど貴重ということ。
逆に、ありふれた希少性が低いものは価値が下がってしまう。
例えば現代は、1日の情報量が江戸時代の人の一生分の情報量と言われるくらい、情報が多過ぎて情報の価値が下がっている。
だから無料情報も多いし、どうでもいい情報も多い。
で、多過ぎて価値が下がってしまう現象を、「自由」に適用するとどうか。
自由度が高過ぎると選択肢が増え、逆に何をやったら良いか迷ってわからない「不自由」に陥る。
大学ではいきなり自由度が高くなって不自由な状況に陥りやすい。
インドには、カーストという制度がある。
身分や職業が決められていて、傍目から見ると自由がなくてかわいそうな気がするが、意外とカーストの中にいると幸福度は高いという。
やることが明確なので、迷いがなく、進路の問題で悩むことがない「自由」がある。
また、日本にもかつて江戸時代は身分制度があった。
村の中で役割が決まっていて、親の職業を当たり前のように継いで、枠組みの中で自由に、そこそこ楽しくやっていた。
しかし、明治時代になると、そこに西洋から「自由」という概念が入ってくる。
自由を得られてよかった!と思いきや、当時の人の感覚は、「今まで村の中で役割が決められてたのに、今さら自由と言われても困るなぁ...。自由度が上がって、逆に悩みが増えた...」というものだった。
夏目漱石が小説で表現したのも、そのあたりの戸惑い、機微だった。
(#「こゝろ」の先生が自殺しちゃったりとか)
今日、大学からいきなり自由度が上がって迷いや悩みが増える現象も、これと似ている。
高校時代や、身分制度のように、自由度を制限して迷いを減らす方法もあるが、せっかく得た自由を享受しながら、同時に迷いなく生きれたら最高だと思う。
そこで、何か価値判断の基準が自分にあれば、それに照らして分別して選択肢を絞ることができ、自由過ぎて自由でない状況を打破できると考える。
価値判断の基準になるものは、ブレないものがいい。
1000年以上前から残っていて、これからも残るであろう古典の類は、ブレない軸になり得るのではないだろうか。
論語とか聖書とか、
聖書とか論語とか、
聖書とか聖書とか。
(聖書やん!)
終わり