どうもです。
価格と価値は異なる。
例えば1本3万円のワインがあるとして、3万円分の価値を感じてありがたく思う人もいるけれど、僕はお酒を飲まないので、自分にとってのワインの価値はゼロに近い。
また例えば、家でお母さんが作ってくれるおにぎりはタダだが、コンビニのおにぎりは100円くらいお金がかかる。
100円かかるからと言って、コンビニのおにぎりの方が無料のお母さんのおにぎりより価値があるとは一概には言えない。
「真心と愛情たっぷりのお母さんのおにぎりの方がコンビニの無機質なおにぎりより絶対価値があると思います」
という人いるかもしれないし、
「いや、自分はコンビニのおにぎりの方が好きなのでコンビニの方が価値があると思います」
という人も全然あり得ると思う。
つまり、価値は人それぞれの好みによる。
それぞれの主観によって、その人にとっての価値が決まっている。
とはいえ、人それぞれバラバラの主観によって価値が決まってしまうと、とても不便なので、便宜上、共通の尺度として「価格」を置いている。
この違いを踏まえていないと、価格に乗らない価値を見逃してしまったり、価格が高いことで、自分にとって価値が無いものに惑わされてしまったりする。
...という内容を本で読んだのですが、教会に行って聖書を学んでいる僕は、聖書につなげてこの話を理解してみました。
価値と聞いて思ったのが、「キリストの価値」です。
聖書を見ると、イエス様は自身の使命・立場について、他言しないように弟子に言っています。
キリストという使命には、ー少なくとも当世おいてはー価格のように法律で規定された価値はついていません。
総理大臣や大統領なども、法律で偉い人ということが規定されているので、価格のようにみんながその価値を認識できるようになっています。
キリストはそれがありません。
(少なくとも当世においては!)
だから、100%、自分で価値を認めて感じなければなりません。
ある人にとっては取るに足らない石ころが、ある人にとっては何にも比べられないような価値を持つように。
終わり
参考
『お金の向こうに人がいる』(田内学 著)