どうもです。
毎度突然ですが、この世に「断定」できることは多くないと感じています。
例えば、科学。
ある物体を1万回落として、1万回落ちたとして、1万1回目も同様に落ちる保証はどこにもない(そりゃそうじゃ)
ですが、キリがないので1万1回目以降もずっと物体が落ちるということにして、「物体を落としたら落ちる」と信じて法則化しています。
また例えば、何かが「健康によい」ということも、 断定的に言い切ることは非常に難しい。
短期的に見ると健康によいことも、 長期的に見ると健康に悪いかもしれないし、
健康によいとされる何かを摂取するとして、 運動をしている前提なら健康によくても、 運動をしていなかったら健康に悪いかもしれない。
そもそも、健康によい、とは何か。。。
などなど、冷静にいろいろ考えると、言えることは「 健康によさそう」あたりが関の山な気がします。
そう考えると、 何かを判断することには慎重にならざるを得ないのかなと思います 。
「人を裁くな」と聖書に書いてありますが、人に関しても、 簡単に「あの人は○○な人だ」と決めつけてしまうことはなかなかできず、
「あの人は○○ のように見える」 とまでしか言えないのではないかという気がしています。
PCのマウスを発明した人の格言に、
"Don't Judge"
というものがあります。
できるできないを簡単にジャッジしないでまず挑戦してみたり、
自分はこういう人間だ、 とジャッジして限界を定めないようにしたり、
確かに簡単にジャッジしないことは重要なように思えます。
本ブログにおいても、 事実と自分の考えは分けて表現するように意識していまして、「〜したいと思います」「~ な気がする」「~かもしれない」 などという言い回しが頻出します。
が!
回りくどい。
すべて厳密に断言しないようにすると、わかりにくかったり、 結局どっちなの?などと曖昧になったりします。
ある種の責任逃れなのかもしれません。
もっと自信を持って断定したい! そんなフラストレーションがあるからこそ、断定してくれる存在や、「絶対性」を前提とした神様に人は惹かれるのかもしれません。
だから私も、スピーチなど、人に何かを伝える際は、厳密さをあえて捨てて、自信を持って断定的に表現します。
その方が、どちらかと言うと心に響く説明ができるかもしれない、 という考えが瞬間よぎったような気が若干しました。
(いや断定しろし!)