どうもです。
タイトルの件ですが、最近、100冊を1回読むよりも、1冊を100回読むことが重要であると考えています。
以前は、月◯冊読んだ、といった指標でとにかくたくさん本を読もうとしていた時期もあったのですが、
読んだ本の内容を完全に理解して、実践して自分のものにできているか?と考えたとき、
圧倒的に「否」でした。
本を読む目的が、自分の人生を変化させたり、成長することにある場合、その内容を実践して生活に取り入れないと意味がありません。
そう考えると、本を一回読んだだけでは、内容の理解すらままならないと思いました。
本に書いてあることを即実践することを前提に、
3回読んで理解ができ、
10回読んで考えながら実践できるレベルに至り、
100回読んで、無意識に本の内容が生活の中で実行できて、体質化・習得の次元に至る、
といった感じでしょうか。。
そう考えると、多くの本に手当たり次第に当たる、というアプローチだと、実践の時間がそれだけ少なくなってしまい、
むしろ実践しない癖がついてしまいかねないと思いました。
なので、本を読む際は、一期一会というか、一冊を大切にして、何回も読みながら実践して、その本を習得する前提で読むようになりました。
すると当然時間もある程度かかるので、慎重に読む本を選ぶようになります。
ただ、その本が100回読むべき本か?という問題もありますので、
100回読むべき、各分野のバイブル的な本を見つけ出すためにある分野を多読する、という必要はあると思っています。
で!で!
前置き長くなってすみません、各分野のバイブルを探すのは大変なわけですが、1つ、これは確実にバイブルだろ!というバイブル的な書物があります。
それは、バイブルです。
バイブル的な書物っていうか、バイブルです。
これは、なかなか間違いないと思っています。
なんせ、バイブル名乗ってますからね😂
結論、各分野のバイブル的な書物を見出すための多読がめんどうになって来たので、
基本に立ち返って、バイブルをバイブルとして、真正面からバイブルしてみようと思った次第です(なんやそれ笑)
新しいことに活路を見出しがちなのですが、大切な物事は意外と既に学んでいたり、与えられたりしてるので、今一度それを極めてみたい、と思いました。
ここで、さっきの、3回で理解、10回で考えてできる次元、100回読んで無意識レベル、という理論に照らしてバイブルをどの程度習得できているのか考えてみます。
バイブルに、以下のような戒めがあります。
「下着を取ろうとする者には、上着を与えなさい」
この部分、3回は読んでいるので、敵を愛せという主旨であることや、命令形でわりと強めの戒めであろうことなど、理解はできています。
だがしかし!だがしかし!
実践できているか?と考えて、実際に下着を取ろうとする者が目の前に現れたとすると、、、
僕「いや、下着パクるなしw
(い、いや!これはもしや聖書に出てくるあのシチュエーションか汗!上着もあげるんだった!すみません!)
う、上着も、あげます...よ?」
下着を取ろうとする者「!?...なんか、すみません...!」
となり、自分のバイブルの習熟度合いというのは、考えてやっと思い出せるか否かのまだまだなレベルであることを思い知らされました。
この部分が言いたかっただけみたいな所もありますが、、、
まだまだ聖書を無意識レベルで習得はできてないと痛感しましたし、
「下着を取られる」という事態がそもそも起こりうるのかという問題や、
比喩という線もあり、真意はわからない部分もありますが、
それも含めて、やはり1冊を大切にして100回は読むくらいじゃないといけないなぁ、と思った次第です。
おわり